調香師・今井綾の開業ストーリー

今井綾

失われた香りを求めて

私がなぜ、「嗅覚」を重視するのか。

それは、嗅覚を失った経験があるからです。

きっかけは、風邪をこじらせたこと。風邪をひいて味や匂いが感じられなくなったという経験はしていない方のほうが少ないでしょう。

普通なら、風邪が治ればすぐ元通り。

「そのうち治るだろう」とたかをくくって普段の生活を続けていました。

しかし、いつまでたっても治りません。

すでに調香師として生きていくことを決めていたため、慌てて耳鼻科に足を運びましたが、待っていたのは「手立てがない」との診断でした。

いくつもの耳鼻科をはしごしても同じことを言われ、調香師としては致命的とも言える事態に、「絶望」という文字が頭をよぎるほど追い詰められました。

師と仰ぐ調香師の先生に相談したところ「脳内にある記憶で調香をしていくことは可能」と励まされましたが、香りのない世界はまるで色がない無重力の宇宙空間のよう。

食事も美味しくなく、生きている実感がわきません。

絶望感にさいなまれながら、藁にもすがる気持ちでもう一度別の病院に足を運びました。

そこで、お医者様に開口一番

「あなた、調香師なんでしょう?ダメだよ、風邪ひいちゃ!!」

と言われました。

調香に理解のあるお医者様で、他では見たことのない最新の設備があり、機械を鼻に通して検査をしていただきました。

そこで、「あなたは犬鼻だね」という事実を聞かされました。

犬鼻、とは、犬のように嗅覚が敏感という意味で、普通の人よりも匂いを嗅ぎ取る力が強いという診断でした。もともと匂いに敏感で、電車内での様々な匂いに具合が悪くなったり、家族が外で食べてきたものを正確に当てて驚かれたりはしていましたが、検査の結果でそのことが明確に証明されたのです。

お医者様によると、嗅覚が完全になくなった訳ではないが、元の嗅覚が敏感なために、匂いがしないように感じてしまうのだろうとのこと。

「元通り治るかどうかの確率は半々。治したければ、毎日とにかく香りを嗅ぎなさい」とのアドバイスを受け、一筋の光が見えてきました。

それから、毎日100種類もの精油をひとつひとつ嗅ぎ続けました。はじめは何の香りもしない日々が続きましたが、ある日、ラベンダーの精油から少しだけ香りがすることが感じられました。興味深いことに、もともと嗅いでいたラベンダーの香りではなく、その一部の成分のみの香りを感じたのです。

1つの精油の香りは、自然から得られた約200種類もの天然成分で構成されています。そのうちのいくつかの成分の香りをキャッチできるようになったようでした。

そこから、来る日も来る日も精油を嗅ぎ続け、少しずつ嗅覚が取り戻されていくことが実感できるようになりました。

そして3か月ほどたったある日、

「ラベンダーから、酢酸リナリルとリナロールの香りがする!」

「ラベンダーがラベンダーの香りになった!」

戻った!

嗅覚が元に戻ったのです。

音もない無機質な宇宙空間から、色鮮やかな世界に戻ってきたような思いでした。

嗅覚を失ってわかったことは、世の中は様々な匂いであふれていたということです。

特別なものではなく、風の匂い、土の匂い、雨の匂い、雑踏の匂いなど、日常の中でたくさんの匂いに包まれて人は生きている。

そして、コーヒーの匂い、干した布団の匂い、美味しいものの匂い、赤ちゃんの匂いなどから、私たちは幸せを感じることができる。

私たちは、幸せを嗅ぎ取る力を持っているんだ!

この気づきが、私のアロマへの思いをさらに大きなものにしました。

私が失われた嗅覚を取り戻したように、嗅覚はトレーニングすることが可能です。

しかも、筋力はいらないので、年齢などに関係なく、どなたでも鍛えることができるのです。

認知しやすく作られた人工香料と違い、精油にはたくさんの成分の香りがグラデーションのように存在しています。そのひとつひとつの中には、ごく淡い、かすかな香りも含まれます。この良質なグラデーションを嗅ぎ取ることが、脳によい影響をもたらしてくれます。

嗅ぐ力を鍛えていくと、気分や体調を整えることに香りを役立てることができるようになります。自分を鼓舞する香り、落ち着かせる香、自分を癒す香り…それらを知ることで、「幸せを嗅ぎ取る力」を強固にすることができると信じています。

そのサポートをすることこそが、嗅覚を失いかけた私が皆様にご提供したいことなのです。

“ユーカリ”の香りに背中を押された開業

新卒で入社した会社で6年目に管理職となり、31歳で営業部長に。

わき目もふらずに頑張ってはいましたが、とんとん拍子のキャリアアップが果たして本当に自分の実力だけによるものなのか?という不安を常に抱えていました。

さらなるキャリアアップのために東京に配属されてからは、社宅と職場の往復で食事はコンビニエンスストアばかりの生活。

身体の調子もすぐれないことが増え、「自分は何のために働いているのだろう」とふと我に返り、自分の力を試してみたい、いつか起業したい、と願うようになりました。

そこで、一念発起して休みの日にビジネススクールに通うことに。

経営の勉強をしながら、自分がどんな分野で役に立てるだろうか…と考えていた時に出会ったのがアロマテラピーでした。

アロマテラピーに可能性を感じ、自分にはその素晴らしさをロジカルかつエモーショナルに伝える力があると確信できたとき、起業するならアロマテラピーで!と心に決めました。

とはいえ、責任ある立場の組織人として、任されていること、果たさなければならないことがたくさんある。起業する「いつか」はまだ先のことと考えていました。

そんな時に、東日本大震災が起きました。

多くの方が犠牲となり、様々な混乱が起きる中でも、通常通り出社しようとする日本の会社員。真面目過ぎるくらい真面目なところは美徳でもありますが、「こんな状況の中で、そこまで会社を優先しなければならないのか?」「こんな優先順位でよいのだろうか」という複雑な想いがわいてきました。

私自身、会社では自分を抑え込み、周囲の期待に応えなければならないとずっと思いこんできました。

しかし、気づいたのです。

「今は我慢して、定年してから好きなことをしよう、と思っても、その日が来るとは限らない」

「“いつか起業しよう”と思っていたら起業できないままかもしれない。」

そう思ってから、「いつか…」という漠然な思いは消え、「起業をする」前提で考え、計画を立てるようになりました。

それでも、20年近くお世話になった会社に退職を申し出ることは勇気のいることでした。

そんな私の背中を押してくれたのは“ユーカリ”の香りでした。

ユーカリは、オーストラリア全土に広がるとても生命力の高い植物です。

葉からしたたる精油は殺菌力が高く、他の植物どころか、自らの種まで死滅させるほどのパワーを持っています。そのため、種は固い殻のようなものに覆われ、火の力によってはじけ飛ばない限り外には出てきません。それでは繁殖できないのでは?と思ってしまいますが、実は、油が豊富な葉が風でこすれあうことで、山火事が起き、そのたびに種が地面に撒かれるのです。しかも、樹や幹は灰皿に使われるほど熱に強いのです。

まっすぐに高く伸びるユーカリは、周囲の都合は考えず、自分を第一優先にしています。人間社会にいたら我儘すぎると言われてしまいそうなキャラクターですが、ずっと自分を押さえてきた私とって、ユーカリの生き方は勇気を与えてくれるものでした。

自分自身が、後悔しない人生を送りたい。

そんな申し出を快く受け入れてもらい、起業へのスタートを切ることができました。

ユーカリだけでなく、精油の元となる植物はそれぞれ個性的な特性やキャラクターを持っています。

私がユーカリの力を借りたように、それぞれの皆様にぴったりのアロマを見つけ、人生に役立てるお手伝いをするが私の何よりの歓びなのです。